西福寺は、文明の初め(約540年前)蓮如上人に帰依した茶谷重右衛門が得度を許され、「釈西了(しゃくさいりょう)」の法名をいただき、島の北東に庵を建てたのが始まりです。宗派は「浄土真宗本願寺派」で、天保十三年(1843年)に現在のところに本堂が建立され、今に至っています。 
   昔は「神仏一体」といわれて、神の島と呼ばれた沖島は、地名に掛島山とか、御座岩、また勧進の森などとあり社寺も建てられた信仰の島でもありました。後に蓮如上人のお導きによって浄土真宗の御教えが伝わり、現在は全戸が門徒です。一月二十五日の午前から二十八日の御満座まで、西福寺・願證寺共に老若男女がお参りされるなど、今も、さまざまな行事が行われ、島民にとって毎日の生活においての拠り所といえるでしょう。 


 茶谷重右衛門の妻は、一子を出産しましたが産後の肥立ちが悪く、まもなく亡くなってしまいました。しかし、その子のいとおしさのあまり成仏できず、毎夜、幽霊となって現れるようになりました。このことを不憫に思い、重右衛門が氏神に祈ったところ、「明日、蓮如上人が島に来られるのでお願いするように」とのお告げがありました。翌日、越前吉崎御坊から堅田本福寺に向かう途中に遭難し、沖島に立ち寄った蓮如上人にお告げのことを話したところ、幽霊をなだめるため、「南無阿弥陀仏」の六文字の名号を重右衛門に与えられました。これらは、ムシロの上で書かれたため、墨跡が虎斑のようにまだらになり「虎斑の名号」(とらふのみょうごう)と呼ばれるようになりました。
 
蓮如上人の像
   これにより、重右衛門は有難さのあまりすぐ様黒髪をすり落とし、山家得度して御弟子となり、法名を「釈西了(しゃくさいりょう)」と下され、西福寺の開基となりました。 
 

 西福寺には、蓮如上人が島を去る際、別れの形見として、御別を惜しむ重右衛門(釈西了)に与えた御文が残されています。これには、
  「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」
正信偈(しょうしんげ)四句の御文が書かれています。

《参考文献
 ・ 「沖島物語」 西居正吉 著
 ・ 「滋賀 近江八幡 水都八都」2002年6月7日発行 bP8 (社)近江八幡観光物産協会 
 ・ 「エプタ」第15号 2004年1月1日発行

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